頓田の森 平和事業
3月26日日曜日、甘木市大字頓田の「頓田の森平和花園」にて平和祈念事業が開催されました。
今回は担当委員会の本石委員長に この事業についての思いを書いてもらいました。
珠玉の短編「無常ということ」において小林秀雄は川端康成との語らいの一部を描写している。亡くなった人の放つ存在感、生き ている人間以上の人間らしさを述べていた。 あらゆる故人の霊前で黙するとき、例外無く感じるのは、故人の持つ激しいまでに 重く、揺るがしようの無いリアリティである。 甘木市立図書館の入り口に立つ「シイの木」はその枝振りからして決して大木では なかったことが想像できる。昭和20年3月27日、この雑木の下に31名の学童が米軍機の投下した爆弾で爆死している。周囲 の木々には毛髪のついた肉片や臓腑がこびりつき、ちぎれた指や手足が散乱し、身につけていたであろう防空頭巾に縫い込ま れた名前からしか身元を確認できなかった遺骸が数多くあったという。 終業式もそこそこに、下校をはじめた学童はいったん大 園橋(いわゆる「ドンドン橋」)に避難していたが、空爆の目標である太刀洗飛行場に近い自分たちの家よりも離れたほうがよいと 大人に諭され、もと来た道を戻っていったという。小学生といっても年齢はまちまちで、おびえ泣き出し、転んで怪我をした子もい たかもしれない。服についた泥をはたき、なだめすかし、手を引き、背負っていった兄や姉の姿を思い描くとき、いまの私にはちっ ぽけにしか見えないあんな雑木に頼り甲斐ある力強さを感じる、自然に対する畏怖をもった彼らの清い心根を思うとき、戦時下に 生まれ育ち、おそらくは一度も甘いものなど食べたことの無い彼らの口に、一欠けらでもいいからコンペイ糖を入れて上げられたら いくらかでも断末魔の苦しみを和らげられるだろうかと、詮無いことを思うとき、自分にも流せる涙のあることを知る。 19年前、 甘木青年会議所は日本青年会議所の掲げたテーマ「日本の安全と防衛」を受け国際関係委員会を設置。当時の会頭所信は見 つからないので確認する必要があるが、資料を読み込んでいくと「国土防衛」や「国家主権」に関わる色彩が強い。実際80年代は 冷戦の臨界点であって、アフガニスタン内戦とソ連軍進駐、戦略防衛構想、日本においても対馬海峡付近の領空を極東ソ連軍の 戦略爆撃機「バックファイヤー」が航空自衛隊機に「伴走」されて飛行していた。LOMが住民向けに行った「日本の安全と防衛」に ついてのアンケートでも「核武装すべし」の意見がいくつもみうけられる。そのような時流があった。 けれども国際関係委員会は 戦争の悲惨さを語り継ぐことを事業の主旨とし、「頓田の森」事件の発掘と公園化を目指した。「日本の安全と防衛」を論ずるにあ たって、大所・高所からでなく、地域から発言するという今日的な立場は、1NOMに限定されない広がりすら持ち、1982年日本 青年会議所国際平和賞優秀賞を賜る。甘木市に「平和事業実行委員会」が設けられたのをはじめ、この公園を出発点として多く の方々が集まってくることを考えると、この事業はJCがたちあげ、関係者の方々の協力で成長している貴重な事業となった。 国家や民族、あるいは死。決して胸躍る事業ではない。慰霊ということを取り上げればこの事業の対象者はすでにこの世の人で はない。他の事業とは異なる感慨を抱かせずにはいられぬ事業である。 今年継続事業である「頓田の森事業」を担当するにあ たり、「頓田の森」の歴史を振り返ることは、私にとってもLOMにとっても意味のあることではないかと思う。 最後になりますが参 加者の皆さん、あるいはこの事業に関心を払ってくださる方々に感謝申し上げます。 |
頓田の森清掃には、20人のメンバーが集まってくれました。
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先日山女山荘に行った時もこのスタイルだった | ほとんど、草も取り尽くしました。 | ||
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今月も愛娘と共に登場の石田副委員長。 | 梶原親子と雰囲気に馴染めない兄貴(左) |
update 2000/4/1
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