浜松町駅一階、『麻雀カレー』を出るとタクシー乗り場。そこから乗車。
増上寺正面の交差点を右折、上体がそれにつられて左に揺れると助手席の向こうに運転手の名前のプレートが見えた。今回の運転手も、どう読んだらよいのか分からない、やたらと字画の多い見慣れない姓だった。尋ねると沖縄から40年前に上京した、という。
『ベトナム戦争の兵站基地だったんだから、当時は上京せずとも地元に仕事はあったでしょう?』と聞くと『都市部、繁華街ならともかく、農村部はひどいものでした、平坦な土地は全て接収されましたから。平地から追い出された者は傾斜地にしか住めないわけです。今なら重機もあるから、傾斜地の開墾も無理ではないでしょうが、当時は万事手作業でしたからね。実質、立ち退き行政代執行ですよ。』。オリンピックを控えた東京の好景気に引きずられて『越境』したのだ、と。
当用漢字にすら載っていないという画数の多い、運転手のその姓を名乗る一族は、彼の実家の在る集落にいまも数件残っているけれど、読みづらく、書きづらい姓を嫌って、若者を中心に同音表記する漢字を替わりに当てて、戸籍上でも改姓までした者もいるそうだ。確かに、容易に読んではもらえない名前では、社会生活上、支障はあるだろう。
『でも、変えられないんですよ、私にはこれしかないんですから』。昨年、よく『不易流行』なる言葉を耳にした。ある意味、私が今年の日本青年会議所への出向を考えたのも、変わりたくなかったからだった。
途中、アメリカ大使館を左手に見ながら坂を下る。『先月、活動家が突っ込みましたよ、ここに。』そんなニュースは聞かない。ちょっとした押し問答が偶発しただけかもしれない。が、確かに先月はここで街宣車を多数見た。
今後ますます効率的な地球規模の展開を構想中の米軍は、日本国内のエスノセントリスト、ファンダメンタリストにしてみれば不倶戴天であるし、彼らにしてみれば国内対米協調派もまた排除されるべき売国奴、獅子身中の虫と映る。
12:00、JC会館。早めに着いた。が、昼食に出掛けるスタッフと丁度入れ替わる形でエレベーターに乗り込む形になった。スタッフ会議は聞きそびれた。402会議室に一人残る。先ほどのタクシーの中でのやりとりを思い返しながら、昨年の秋から気懸かりな、あるJAYCEEのことを思う。
委員会は13時を15分遅れて始まった。40名強の参加という。
京都会議でのセミナーの総括から始まる。現状、ローカル・マニフェスト推進・普及協働運動は、各地会員会議所の段階では概ね公開討論会等の開催にとどまっている。ここで問題になるのが往々にして討論会を開催する際の地域毎の問題点であって、当協働運動の本質論である国民の責任ある政治選択の為の一環であるという認識が失われがちとなっている。京都会議のセミナーでの質疑応答が活発であったことは喜ばしい反面、さらなる事業展開における一般方向を模索する上では示唆に富む京都会議セミナーでもあった。やはり、京都のセミナーは一通過点なのだ。
今日、いわば『ブーム』といっていいほどローカル・マニフェストが地方政治を賑わせている。しかしながら、私たちが希求すべきは市民意識変革であり、選挙時に蠢動する『プロ市民』行為であるならば、これを恥じなくてはいけない。
真の民主主義の達成とは、有権者が責任と自覚に基づき社会を選択することをいうはずだ。歴史的に『市民』とは古代ギリシャ、古代ローマの、兵士として防衛義務に従事する成年男子自由民に起源を有すると聞く。守るべきは何なのか、向かうべきはどこなのか、果たすべきは何なのか。私たちが唱える政治運動が極私的、近視眼的視野だけに止まらず、他者を思いやり、他の社会を鑑みる中で、失われた高い精神性を取り戻す過程であることを望みたい。
こと今日に至っては、被選挙人・立候補予定者も有権者もともに悩む時間を共有したいはずだ、国からはもう何ももらえないのだから。利益配分と誘導の過多をもって地域の名士であった首長や代議員の時代はもう終わってしまった。『由らしむべからず、知らしむべからず』の時代は既に懐かしい『古きよき時代』として語るべきものとなった。孔子先生は、市井が為政者の顔も名前も能力も分からなでよかった堯や舜の時代を理想としたそうだが、どうやら私たちは先生に叱られなくてはならない時代を熱望している。
私たちは、全国4万会員につながる国民の全てが、火中の栗を拾うことを望んでいる。私達には民衆の敵、パブリック・エナミーとなる覚悟があるのか?でなければJAYCEEは『プロ市民』以下として括られる。
サマコンのセミナーの議案も出てきた、題して『草莽崛起(素案であるから名称は変更されるかもしれない。委員会で『これ、読めない人いますか?』と問われたので勢いよく手を上げたら、挙手したのは私だけだった。後で、『つまり、「百姓一揆」ってことでしょう?』と小委員長に尋ねたら、『近い』といわれた。)。この夏、現会頭の所信は具体的な形となり、本年の国民主権確立特別委員会の本質的指針が広く、明かにされる。
多少の誤解を覚悟で言えば、本年の私は外遊書生だ。LOMにとっての要不要を問わず、自己の良心のおもむくままにJAYCEEへの回帰を試みよう。
懇親会は西麻布の『月の庭』なる居酒屋。『星条旗新聞社』という報道機関とは狭い道向かいにある。
2階建ての民家を思わせる店舗の、その2階の外には広めのベランダがあり、ここにコタツが据えてある。座敷で酔いが回った連中が、思うまま露天のコタツに集まってくる。先ほどの星条旗新聞社は目の前、かなりでかい新聞社だ。
土曜の夜とはいっても新聞社なら窓に明かりがあってもよさそうだが、一つもない。各国に駐留する米軍の兵士やその家族向けの新聞発行を専らの業務とするらしい。『万人向けで無い、かなり限定された読者向けの新聞社に、これほどでかい建物がいるんですかね』と尋ねると『新聞社は表向き、国内CIAの事務所なのよ』と冗談ともつかない苦笑で返された。聞きそびれたけれど、やっぱり道の向こうはこの国の主権が及ばないところなのだろう。『スナイパーのスコープに、ここの酔っ払いの頭がもう入ってると思うよ』と東京JCの連中はまた苦笑した。こういう会話は東京JAYCEEでは珍しくないのだろう。今更ながら、日本は敗戦国だったことを知らされる。
前述のとおり、当委員会には現職の市議会議員が会員として数名在籍している。この露天のコタツでは先ほどの傀儡国家日本論に端を発し、傀儡地方行政府についての議論が繰り返しおこなわれた。私には専門知識はないから、小難しい話は分からない。けれど彼等の憂いは心に響く。
藤沢JCの松長さんは市議だ。昨年の予定者会議でチラリと見ただけだったが、どこかとっつきにくい印象があって、話もせぬまま今日に至った。狭いコタツの隣で顔を赤くした、この若い市議はある意味、市民運動の限界を知っているのかも知れない。『本石さんは市議の息子なんでしょ?だったら代議員になることで初めて変えられるものが間接民主主義社会にあることを知っているんじゃないの?』、本職の舌鋒は手厳しい。
『疑問を持ったら質問する、理不尽は糾弾する、助けられることを望む者には手を差し伸べる。ちっとも難しいことじゃないぞ、当然のことじゃないか。そういう社会をあなたも好きだろ?』。軽く言いのける顔がちっとも笑っていない松長さんを見ていると、ふと明治期の文士や社会運動家が互いに交わしたという挨拶のことを思った。彼等は『やあ、こんにちは』という挨拶替わりに、出会うたびに『哀しいではないか』と言っては握手し合い、それから時を忘れて論じ合ったと聞く。
ここには憂士が集っている。
ラウンジに移る。この手は苦手で私には費用対効果の乏しい時間ではあるけれど、委員長とも話をしてみたかったし、間もなく開催される岩国の公開討論会の情報も聞きたかった。
私は酔うと、随分失言が多くなる。先輩達からたしなめられ続けてもこれだけは変わらない。『私は委員長を男にするために出向しているわけじゃありません』。私のような愚連隊を酒も飲まずに相手にできる委員長は大した『もののふ』だと思う。一つ年下のこの委員長の男振りにはいつも、微に入り細に入り惚れ惚れするばかりだ。彼が率いる小委員長3人も実績、論陣ともに冴え渡っている。今日の彼等の雄姿が一日にしてならざるのであれば、彼らを磨き練り上げたであろう、無名の先輩方の背中にもまた思いを馳せる。
川島小委員長と前田さん(大阪ブロック 枚方JC 川島小委員会)の後に続いてラーメン屋に入った。今晩宿無しの私は小腹を軽費で満たして、ネットカフェかカプセルホテルで夜を明かすつもりだった。『本石さん、宿決めてないの?だったら一緒に泊まりません?』、前田さんに誘われて宿へ。
部屋のベッドからマットレスを床に下ろす。二人でジャンケンをする。ジャンケンして勝った方は『マットレス無しのベッド・掛け布団つき』、負けた方は『マットレス、掛け布団なし、バスタオル付き』。袖触れ合う珍道中になった。
翌朝、小委員会の開催に合わせて二人で部屋を出て、途中ロイヤルホストで朝食。申し訳なかったから朝食代だけはお支払いした。
朝食を交えて枚方青年会議所の取り組みをうかがう。昨年10月に枚方市長のマニフェスト検証事業を実行委員会形式で開催したということだった。前田さんは実は入会2年目で、昨年入会半年の時点で検証事業にかかわったのだと。日本に来るのに12年かかる奴もいるが、1年で軽々とやってくる会員も複数いる(霧島の竹下さんもそうだ)。検証事業担当当時は訳も分からず終わってしまったから、その学びを深めるために出向している、のだそうだ。こういう話を聞くと、やはりJCは機能集団なんだと実感する。
『一宿のご恩被る上に、申し訳ないのですが・・・』と、話の途中から気になって仕様がないない検証事業の資料を拝見したい旨相談すると快諾、3日後に分厚い資料が郵送されてきた。私は元来、出歩くことが好きじゃないし、社交辞令には飽き飽きしている。けれど昨年、『まちづくりは足で成す』とLOMの委員会基本方針に書いたのも、この私だった。『宿も決めずに犬コロが歩くと、棒ならぬ幸運に出くわしました』とメールで返礼。すると『理事長の承諾も得ました、存分に使ってください』と配慮ある返信を頂いた。
頂いたこの資料は、LOMでは今後数年、役には立たないだろう。その原因を作った当事者の一人は私だ。直近の域内首長選挙なら3年後になる。これまで3年もかけて企画した域内首長選公開討論会は、本年も開催できずに間もなく中止を迎えつつある。このまちは足掛け5年遅れのまちづくりを余儀なくされるのだろうか。当初の動機からすれば、私の出向も的外れに終わりつつある。
しかし、だからこそ私は、イベンターに堕することもない、当委員会の本来の設立趣旨を血肉とする委員に生まれ変わるべきなのだ。私には私の戦いが用意されている。もう会うこともないかも知れない先輩JAYCEEの新貝さんは、入会間もない私に常々説いたものだった、『JCはイベンターではないんだぞ』。
|