岩国市長選公開討論会
2006年4月8日(土)19:00〜21:00
岩国市民会館大ホール

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4月8日(土)

 05年度の日本青年会議所の取り組みには、例年になく個人的にいろいろと思い入れがある。
  全国大会へ出向いたのも実は昨年の姫路が初めてだった。『年度末の内輪の打ち上げやもんなぁ』という先輩のもっともらしい解説に則って、全国大会は入会以来全く関心がなかった。が、昨年は理由があって是非足を運ばねばならなかった。

出向いてみると興味深い趣向もあった。懇親会場に2006年度世界会議のキャラバンのためソウルJCが来ているのを承知の上で、高竹会頭が豊臣秀吉に扮して騎馬で会場に現れたのは、『国旗焼却事件』を受けた健全な狂気の成しえる趣向か?2005年度恐るべし。
思えば、『ローカル・マニフェスト推進特別委員会』はこの会頭に付き従った精鋭だった。『JAYCEEへの回帰』とでも表現すべき指針を掲げ各地を疾駆した05年度母衣衆だった。

姫路にはさらに面白い『趣向』があった。味村太郎という人物に触れたことだ。
原議長率いる地域力創造会議のセミナーの基調講演に穂坂邦夫氏が登壇することが分かっていた。この翌週に開催予定のLOMの委員会事業に講師として穂坂氏を招聘するにあたっては、姫路で再度控え室に挨拶に出向き、辺境LOMを印象付け、わずかでも打ち合わせをしたかった。姫路行のもともとの理由は担当委員長としての職務を果たしたいという唯一これだけのことであって、実際、穂坂氏の基調講演は素晴らしいものだったこともあり、翌週の委員会事業の成功は確信できた。安堵もした。
半ば時間つぶしで傍聴した基調講演後のパネル・ディスカッションに、パネラーとして壇上に登った一人が当時の岩国青年会議所理事長・味村太郎氏だった。

壇上にはコーディネータとして原議長、パネラーとして茨城ブロ長、近畿地区長、味村理事長の3名。道州制をはじめ、今後激変の地方行政が予想されるなかで、地域主権、市民主権型社会の実現のために青年会議所の果たすべき役割を考察する旨の時間だったと記憶する。
有り体に申し上げれば、茨城ブロ長や近畿地区長の整然とした論調と比較すると、このときの味村理事長の話はすこぶる下手だった。が、まるで見劣りしない。二人の話が巧緻で鋭利な剃刀なら、味村氏は実績に裏打ちされた数少ない言葉を重い野太刀よろしく脳髄に振り下ろしてきた。地域での政治活動の実践に(無論、現職理事長としてではなく個人としてではあるだろうけれど)まるで躊躇していない。政策提言・政治活動に個人的に邁進するJAYCEEが全国に少なくはない中で、JCの公の場でそれを本来関わるべきJCのまちづくりとして論じる会員を直接見た初めての機会だった。『政治にかかわるべきでない組織』といわれているJCの外殻を、JCの発生以来の精神に導かれるまま、結果として当然のこととして破ってしまった会員を見た思いだった。『地域の責任世代たろうとするにおいては躊躇しない会員がいるのだな』、改めて組織の可能性を認識させられた。よって、この3ヵ月後の2006年1月、自宅の朝刊で『味村太郎、岩国市長選に立候補表明』の小さな記事を見つけた時は、素直に納得できた。

米軍の世界展開の再編に西日本の多くの米軍関連施設がかかわっている。岩国飛行場へも厚木基地からの57機の艦載機の移転計画が取り立たされている。味村氏は国との交渉を密に継続するためにも、移転計画の受け入れを前提としていると聞く。
合併を控える岩国市は3月にこの案件について現職市長の発議(と聞いている)で住民投票を行っている(市民からではなく市長発議の住民投票は珍しいのではないか?)。合併後の新岩国市になってしまっては旧岩国市の住民投票の結果に、意味や根拠が薄くなることを承知の上でも、是非住民投票を成功させたいという運動が岩国市で展開された。結果、住民投票は半数を超える有権者の投票をもって成立し開票、うち9割に及ぶ旧岩国市民が移転計画に反対していることが明かにされた。実質これを受けて、新岩国市長選は展開されている。
移転受け入れを拒絶しない(『条件付受け入れ』と見える)味村氏はこの時点では『岩国市有権者の敵』だ。軍施設は所謂『迷惑施設』であって、彼はこの迷惑施設にまちづくりのアイテムとしての役割も期待している。『迷惑施設』受け入れを唱えるJAYCEEを間近で見たのも初めてだった。

かつて甘木朝倉JCが組織を挙げて迷惑施設受け入れ反対運動を展開したことを記憶している。域内の河川、小石原川の上流部に持ち上がった産業廃棄物処理場問題と、隣接する浮羽郡のごみ処分場建設が甘木朝倉との境である筑後川の中洲に持ち上がった時だ。これに対し、LOMは理事会を通したチラシを作成し、『反対』の意見表明を発信したことがある。
国防に絡む基地問題とごみ問題を一括りにすることに抵抗ある会員もいるとは思うけれど、どちらも『迷惑施設』であることに異論ある者はいないと思う。必要を前提とし、根拠に一応の妥当性がある場合、これに対して下す受け入れの可否は結局その個人の信条や思想に基づくものだ。当人が優先する守るべきものが何なのかが浮き彫りになってくる。
可否いずれにせよ、対立陣営からの猛烈な罵声は避けられない。狭いコミュニティーの中で生業を成り立たせ、家族を養う私たちは第3の道を選択することを従来『知恵』と呼び、尊んでもきた。

今回は実行委員会主催とはいえ、岩国青年会議所は実行委員会事務局をLOM事務局に据え、公開討論会開催に積極参画している。この時点で立候補表明者は2期目の現職と、昨年のLOM50周年の理事長であり06年度日本JC国家安全保障問題委員会副委員長。基地問題を有する岩国市長選公開討論会に、よくぞこれだけの配役が揃ったと思う。岩国の青年会議所会員は妥協や留保で薄められたものでない、原色のまちづくりのみを掲げ、退路を断つ中で活を見出そうとしているように思えてならない。どこまで真ん中を歩けるのか、青年会議所の真価を披露しようと試みている。

新岩国駅に伊達小委員長を迎える。数日雨続きの晴れ間、週末の午後、錦帯橋へ向かう観光客が2号線を埋め尽くし、先へ進まない車中で、前日開催の嘉麻市長選公開討論会の件と、本日に関して仕入れた情報を小委員長に報告する。
伊達小委員長はサマコンでの事業担当の小委員長でもある。サマコンの議案について今この時、日本JC役員が協議している中、委員長の承諾を得て伊達小委員長は霧島から岩国に足を運んでいるそうだ。協働事業展開担当小委員長でもある伊達さんの今日の役員会の欠席を、今回は妥当なものと委員長は受け止めたのだろう。岩国での取り組みは今期開催の討論会事業の天王山だと皆が思っている。

会場1時間前に会場入り。梶川理事長から話をうかがう。彼は本年唱えている、『堅忍不抜』、痛みは諸手で抱くもの、力は余さずふるうもの、と。
選挙の争点が基地問題に絞り込まれつつある中で、岩国青年会議所は既に本年2月例会の中で岩国飛行場についての勉強会を開催していることをLOMのホームページで確認していた。仮に60年前の戦争に日本が負けなかったとしたら、甘木はそれまで同様、東アジア最大の軍航空部隊展開の拠点であり続けていたのかもしれない。基地問題は『5分後の世界』ではまさに私たちの問題だったはずなのだ。

『姫路の全国大会で、セミナー会場にいたんですか?彼は変わりましたよ』と梶川理事長。熟して落ちる果実のように、この半年、現職市長も、味村直前も高まり続け、ついには住民に信任を問う以外になくなったのだろう。

入り口で配布された二人のローカル・マニフェストはA3版に印刷。地元ローカルテレビ局が事業を共催。テレビカメラは各放送局合わせて5台に及び、場内のどこかからか、始終プレスのフラッシュが焚かれている。
両人のローカル・マニフェストに基づいての話は全体の4割ほどだったと思う。住民投票開催の経緯や基地受け入れの可否に基づくまちづくりが討論会の時間のほとんどだった。政策を明確にし、政権選択・投票基準をより容易にする道具としてローカル・マニフェストがあるとしたら、今回はローカル・マニフェスト型公開討論会とは言いがたいかも知れない。しかし、前提・基点となる政策がこれほど異なる以上、討論の焦点は集約される。

現職市長の事前選挙運動ではなかったのかなどとも聞いていた住民投票実施の経緯も、外部の者なりに私は理解できた。確定していない中で憶測を含めてとり立たされている国からの支援の話も出てきた。両人が壇上に同時に上がることで、当事者の口からこれまでの発言の根拠を直接同時に聞くことが出来る、千載一遇の機会だ。どちらにも、揺るがせにできない、退けない一線があることが伝わってくる。会場内の参加者は、実質どちらかの陣営に属している住民が多いと思う。同じ町内の隣同士が相互不信であったのがこの数ヶ月の岩国市であったならば、この公開討論会がまちのトップリーダーを決める材料としてのみではなく、断裂した地域をもやい合う機会としても活きてほしい。
  岩国の若者はそれを望んでいたに違いない。

 小委員長に誘われて、討論会終了直後、神吉コーディネータに挨拶に出向く。お会いすると、見知った顔が二つ並んでいるからか、神吉氏は打って変わって途端に緊張が解けた表情をされた。
  『基地問題は本当に難しいです。どうでした、今回の討論会は?』
マニフェスト型討論会としては内容を満たしていない感があったことを伝えはしたが、むしろそれは手法の問題なのだ。基地問題が今後とも取り組んでいかなくてはならない岩国市の負債であるなら、それを二つの陣営に属する市民の互いの融合の資産として、懸け橋として活かすことが新市長の責務であり、本懐ともなって欲しいと三人で語り合った。

こんな討論会は初めてだった。地域を憂い、国を憂い、世界を憂う若者に接した私は本協働事業の奥深さを知ることが出来た。国民主権確立特別委員会は提唱する協働事業に『エントリーしてください』と常々言ってはいるけれど、学ぶべきは私の方だった。

帰路、一人、三時間の高速。車中、あれこれ振り返った。敗戦1周年となる4月11日正午をまもなく迎える。昨年の私たちは立候補表明者に敗れたのではなく、私たちが自らJAYCEEであることを辞めたから敗れたのだった。
カーラジオが大阪の芸能の近況を紹介している。5世鶴澤燕三の名跡を継ぎ、弟子燕二郎が6世燕三を襲名した、とのことだった。5世鶴澤燕三は人間国宝にして希代の名三味線弾きであり、舞台での本番演奏中に脳溢血で倒れても、握った三味線も撥も放すことなく無意識に手を動かし続けていたという逸話を私の師匠から聞いたことがある。芸談などと軽々しく呼んではならない、心意気が残した伝説だ。彼は『ひらがな盛衰記』の演奏中に倒れたと聞く。5世死去後、早や5年が経っている。
6世燕三は、今月のその襲名披露公演の演目として、まさにその『ひらがな盛衰記』を選んだ、と。未完に終わった師の演奏を自分が完結させることで、師の心意気を継ぎ、さらに師を凌駕することで報恩と供養に代えようと思っているのだろうか?

一口に『変わらぬもの』と言うは易しい。生々流転が常の世の中に敢えて存在する『変わらぬもの』は、『変わるべきでないもの』を選り抜き、世の流れに逆らって『変えまい』と尽力し倒れた先人の心意気の残り香なのだ。多くは無名である彼らの口数は少なく、奥ゆかしく、自らの信念を無理強いもしない。この残り香を察する者も少ないかもしれない。だからといって臆することはないはずだ、気付いた者から始めればいい。JCは心意気から始まったじゃないか。