22日
昨年、4月11日月曜、事業の中止を決定した正午を少し過ぎた頃、05日本の担当委員会 木村副委員長(名古屋 JC )が電話をかけてこられた。この時刻が最終判断時刻であることは既にお知らせもしていた。
事業推進の可否の確認にあわせて、私を気遣ってか、しばらくお話を頂いた。一度も会ったこともない木村副委員長と、このとき約束を交したのだった、『微力ながら、今年頂いたご恩は来年日本に出向することでお返しします』。
あの日、あの時、私は篠栗の屋根の上だった。春の割には暑い日だった。あれからつながって今日があり、今後もきっとそうだろう。
12年目にして、やっとスタート地点に立った気がする。
4月東京での全国の会員向け公開委員会での田中甲氏
http://koh-tanaka.seesaa.net/
よりの話を始め、ここ半年の委員会への参加を通して得たものは、『ローカルマニフェストに関する知識』というよりも、青年会議所が何のための組織か、ということを『考える機会』だったといった方が正しいと思う。
やれ『使命だ』、ほれ『ミッションだ』と軽く語ってきた私は、6月の鹿児島開催委員会で足を伸ばし、初めて訪れた知覧の記念館の、整然と並んだ出征兵士の遺品群を黙って独り凝視する中で、はっと気付かされるものがあった。
『そうか、命を使うに値するもの、命をすり減らすに値するもの、と書いて「使命」と云うのか。』
という、初等教育ですでに仕入れていたはずの、それ以下には因数分解できない、この熟語の単純な意味するところだった。
個人にも、組織にも『使命』があるというのなら、当然、法人組織たる青年会議所にも根源的な、それ以下には因数分解できない『使命』があるに違いない。十九、二十の青年が毛筆で書いた数百枚の遺書(墨で巻紙に連綿と書き連ねられた、しかも誤字や言い回しの不備が一字もないこれらの遺書は、書き損じを何枚も反故にした上で、清書に清書を繰り返した、きっと最後の一枚なのだろう。無論、墨は自分で独り静かに磨ったものに違いない。何を考えながら磨ったのだろうか。)を見るうちに、入会間もなく聞いた、あるフレーズが明滅した。
『そうだったな、積極的な変化を自らの手で創り出すこと、だったな』。
青年会議所を『木』にたとえるというのなら、『ひとづくり』、『まちづくり』あるいは三信条の『友情』という言葉ですら、この JCI の根源的なミッション、『積極的な変化を自らの手で創り出すこと』の脇から伸びた、せいぜい見栄えのよい『枝葉末節』となり果てることだろう。 JC は『敢えて変化を巻き起こす』ことにその命をすり減らす組織、なのだ。自己に対しても、あるいは地域や組織まで含めるところの他者に対しても。
NOM もまた、そのベクトルをずらさない、
『 巻き起こせ、市民意識のムーブメント! 〜志の波が「美しき日本」を呼び覚ます〜』。
私の青年会議所運動の一里塚にして、本年出向者としてはニイタカヤマたる06横浜サマーカンファレンス。
同宿の杉村小委員長らとホテルを出る。徒歩にて会場へ。心配された雨は今の時点では降っていない。委員会に割り当てられた控え室に荷物を置きに行きオープニングフォーラムへ出向く。
短いフォーラムで最も印象深かったのは、そのオープニングで前面に数秒間投影されただけの一枚の写真だった。様々なスポーツにも焦点を当てた映像群の一つに、柔道家二人が、審判のいない、広い道場に離れて対峙し、互いに低頭礼している逆光の写真だった。審判すら要らない、第三者の仲裁が必要ない、利他と自律との中庸の精神を浮かび上がらせる一枚の写真がその後一時間、終演まで私の心を捉えた。
メインフォーラムには参加出来ない。その後開催される当委員会のセミナーのリハ、確認を終えなくてはならないから。私たちのニイタカヤマ、『304』へ。
昼間さんの指示で細部の確認を繰り返す。私はバックアップにあたる機動遊軍で、難しくはない。じっと舞台上手脇に待機して、プロジェクターの映像や登壇者のタイミングを昼間さんと話しをしながら当事者に伝令すること。それも、昨日読み合わせで確認済みではあるけれど。
230名収容の『304』に300名もの登録を頂いたし、当日希望される方の登録もあるだろう。当セミナーの閉会15分後には国家安全保障問題委員会がセミナーをここ『304』で開催するので、撤収は迅速にしなくてはならない。問題があるとすればここだけだ。
ったはずが、待てど暮らせど300名はやってこない。何故かと確認したら、メインフォーラム終演が大幅に遅れているらしい。当セミナー開催予定が14:45であったのに43分の時点でまだメインが終わっていない、との伝言。次の国家安全保障問題委員会セミナーの開催時間のこともある。予定7分後、14:52に『開会』の指示を昼間さんが出した。立ち見を想定していた場内来場者は、この時点で三割ほどか。
徐々に増えて、終演時には会場も埋まった。その間にも、遅れた進行を取り戻すべく何度も微調整が図られ、加除が行われた。何とか軟着陸した。
http://www06.jaycee.or.jp/2006/nation/sovereignty/
04年度から始まる取り組みは、今日に至り各地青年会議所の尽力で様々な展開を見せ始めた。当日配布資料であった冊子には、多数の LOM の注目すべき展開事例、変亜種とでもいうべき、地域に根付いた、その地域だからこそ求められた取り組みをまとめている。
今後地域ごとに無限に変遷していくであろうこうした歓迎すべき流れを受けて、だからこそ原点を見詰め直す必要も出始めたと思う。『公開討論会ありき』ではなくなってきたからこそ、手法の問題に埋没しないよう、足元を見詰める時期に来ているようにも感じる。
興隆や自立を地域力に求める中で、時代の当事者意識に目覚めてもらいたい。実感ある生を謳歌して欲しい。この事業を通して、まちを表裏双方から見詰め直し、醜い点まで含めて地域を育み愛し慈しみ、地域の責任世代たる意識を JAYCEE に持って欲しい。そのために、『政治』を信じこれに参画することから始めて欲しい。誰もが等しく持つ『一票』の価値と可能性を信じることから始めて欲しい。
ローカルマニフェスト型公開討論会の知識を仕入れるために出向したはずの私は、中学での『公民』の授業を、感極まりながら再度受講した、ともいえる。
まだまだ議論の余地もある、との指摘を甘んじて受けなくてはならない、青年会議所の提唱する国家再生・地域復興プログラムのツールとしての、国民主権確立に向けたローカルマニフェストに関する取り組みが、今後ブラッシュアップを繰り返し、いつの日かお茶の間の話題としても語られることを願っている。青年会議所運動同様、この協働運動も、発展的に解消する日がいずれは到来することだろう。『明るい豊かな社会』を目指す組織が社会において必要もなくなるほど、社会が明るく豊かであるとよい。
閉会後、控え室たる『317』へ移動。メインフォーラム終了の遅れから、遅れて入場された福岡ブロックの LOM 支援委員会 向江委員長と会う。セミナーの受付を担当した杉村小委員長には福岡ブロックより協働運動担当委員会の委員長が来ることは伝えていた。このこともあってか、すでに、向江、杉村両氏は移動した『317』にて、会談を進めている。今月28日に上程するらしい福岡ブロック会員会議所会議への上程議案を題材にしながら話が進んでいる。
杉村小委員長は確か私より3歳年下。愛知ブロック 旧豊川 JC (現穂の国 JC )へ入会したのは20歳と聞く。リンカーンフォーラム東海の初期段階に関わった人物でもあるらしい。日本青年会議所の取り組みとはまた異なる哲学を持った、歴戦の無頼漢(風貌も含めて)だ。たまに委員会内のメーリングリストで送ってくる彼からのメールは、私にとっては委員会における私の活動を省みる機会となることが多い。
昨年12月の JC 会館で、委員会開催前にメンバーと名刺交換した、その初めての仁が杉村小委員長であった。が、小委員会が違うこともあり、あまり話すこともなかった彼の哲学を、二人の会話の中で聞こうと耳をそばだてた。独自で豊かな地域性と4年周期で脚光を浴びるローカルマニフェストとの共生(?)についての持論は興味深い。
昨年嫌悪感を持ったローカルマニフェストは、ここ一年接するうちに、『慣れ』も生じたのか、私は確かにこれを違和感なく国民主権確立のツールとして語れるようにもなった。確かにマニフェストの可能性を信じることが出来るように学びもし、成長(?)もしたからだろうが、単に無為に流れに乗っただけかも知れない。それでは『地盤・看板・カバン』の相対的評価で将来を丸投げしている今日までの有権者と何ら変わらない。還るべき理念の実現に向けて、功罪あるあまたの手法のなかから、何を選ぶのか。共同体の委員会活動、あるいは日本の青年会議所の運動であっても、起点はやはり、責任ある個人から始まる。
LOM ナイトのない私は東京 JC の LOM ナイトへお邪魔した。当委員会のフロア(!)メンバーである西村直前理事長と話が出来た。この方は、実に興味深い人物だ。青年どころか少年とさえ思える『熱』を持っておられる。
『疑問や不正に対してはお前たちが言うんだよ、「おまえら、それでいいんか?」と。これが言えなくてどうする。社会だろうが JC だろうが、変わりあるもんかっ!』。
今年卒業に及んでも擦り切れないのは、取り組んだ諸々の事業を通して理念が練り上げられ、結晶化しているからだ。でがらしの御隠居、となる日は彼にはしばらく来そうにない。
この時点で既に次年度の話も聞こえだしている。副委員長の3人はそれぞれ、理事長へ、副理事長へ、あるいは次年度も日本の委員会へという話も聞く。相澤委員長に関する噂は聞かないが、やはり LOM のキーパーソンとなるに違いない。私も何かしらの来年を考えるべき時期に来ている。こうした時期だからこそ、西村直前は上記の荒っぽい話をされたのだろう。
昨年の会頭選挙では、私は故あって LOM 理事長の名代を務めた。今年私は、名古屋の池田会頭を首班とする日本 JC に出向し、東京の相澤さんを委員長として担ぐ。冷静に考えると、なにやら因縁めいている。去年の会頭選挙から一年経ったのか。昨年の日本 JC の事業で目にした人物は、その後各所で活躍なさっている。平関東地区長、穂坂邦夫氏、樋渡啓祐氏。これらを私へと、 LOM へと橋渡して下さったのが05年日本 JC の、地域力創造力会議議長の原元ブロ長、そして下川委員長をはじめとするローカルマニフェスト推進普及特別委員会のメンバー達。
一年は、瞬く間。早い。
三次会も勧められたが、 LOM ナイトで気を遣ってもらうのも悪い。友人との再会を期して LOM ナイトから離れ一人でこれから時間をつぶす、という笹島さんと二人でしばし飲むことにした。
東京 JC 、期待の32歳。地域の政治に先頭に立って関わろうとの夢もある、この実直な人物は、セミナーで上映されたパワーポイントを作成、編集した人物でもある。
サマコンのセミナーの中心部分は私も所属する伊達小隊が担当だけれど、その核心部分はこの小委員会の過半を占める東京 JAYCEE が短期で一気に作り出したものでもある。だから、九州 JAYCEE はエントリーの増加、つまり伝道に尽力しなくてはならないと思うけれど、結果は伸び悩んでいる。
『申し訳ないです、無為のまま、お世話になりっぱなしで。』
『もうよしましょう、地理の遠近はいかんともし難いでしょ。』
『では、「ありがとう」でいいのですか。』
『そうです、「ありがとう」、です。』
ラーメン屋で握手をした。
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