郡山全国大会 懇親会編
2006・10・07

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 『エロス』、そして『タナトス』。
帰省の際、荷物になりそうなものは古本屋で換金し、滞納していた電気代やガス代へと変わり果て、以降振り返られることも無かったけれど、時折これが頭をもたげるようになったのは何故だろう。
  『エロス』、そして『タナトス』。
『愛の衝動』とか『死の本能』とか訳されることもある。『現状肯定』とも『破壊衝動』とも書き換えられることもある。人間は相容れない二つの拮抗した情動の中で生きている、ということか。サマセット・モームの『剃刀の刃』?学説としての価値はもう忘れた。

 入会以来の気の置けないメンバーと、たまに酒を二人で飲むことがある。彼からすれば入会以来失敗続きの私の、さらに今年の単独行は奇怪・不可解の極みでもあるらしい。先日、カウンター臨席の彼からの『何をこだわっているのか?お前の活動の源泉は何なのか?』という問いに、
  『JCを、愛しているから、かなあ』、思わず口をついて出た。
  しばらく、沈黙。二人ともこれにつながる言葉を探して視線も言葉も交わさず、おろおろした。

 入会以来12年、人生の3分の1はJAYCEE。入会当初はともかく今に至っては『好き・嫌い』の刹那的、生理的な判断で諸々の事業も或いは青年会議所運動も、最早見ることは出来なくなってしまった。嫌なことも確かにあったがそれでも会費を払ってきたのは、問題の源泉を自分に帰せしめるだけの仰ぎ見る卓越した先達がこの組織の周辺に多かったから。要は、無為にではなく『敢えて』会員であり続けてきたから。人生は自分の積極的な責任ある選択の連続だと思い込みたいから。
  『JCは役に立つぞ』、といえばLOMの会員も結構増えるかもしれない。でも、一体自分の何の役に立ってきたろう。住まうこの地域においても周りからすれば余計なお世話の連続ではなかったか。住民が本当に主権者になりたいのなら、私が今年破れかぶれの出向をすることもなかったかもしれない。私は適当な役職を手慰みにそこそこ満足できるJAYCEEとして、今年は『悦ぶ』ことはあっても、少なくとも『怒る』必要はなかったろう。私の『愛』なんてストーカーのそれじゃないの?
単独出向は独りであることが多い。LOMからも、出向先からも糸の切れたこうした移動時間は出向者に降りかかる避け難い受難の時間かもしれない。

 台風の時期は忙しい。しばらく出席しなかった委員会に出向いた。といっても13号の復旧は待ったなしで得意先からの催促がある。当日午後から福岡発。郡山へは懇親会からの参加になった。懇親会にしか行かないなんて、最低の委員会活動だと知ってはいても、私の恥を厳しく詰問できる、志を同じうする会員が郡山で待っている。
  あんまりパッとしないホテルの懇親会場の一室へ。
『よお、落ち武者』と埼玉、三郷JCの柴田さん。今年卒業。やはり今年卒業の東京・町田JCの大貫さん同様、04の『マニフェスト型国家創造会議』、05『ローカルマニフェスト推進委員会』、そして今年、と3年連続でこの委員会へ出向しているJAYCEE。こうした会員を財産とするLOMもあれば、『ボイジャー』と蔑むLOMもある。卒業後も影響力を周囲に撒き散らすために役職の上積みすることを本流というのなら、亜流の最たるJAYCEEたち。
彼等は知っている、今のJCには社会を変える力は無いと。しかし思っている、少しでも社会を『揺り動かしてみたいんだよ』、と。運動を立ち上げた04からどれほど揺らいできたのか。大きく揺らいだ地域、揺らがなかった地域。上澄みをすすって分かったような話をする私に彼等は最後まで話を合わせてくれる。

もう一人、話してみたかったメンバーがいる。三人いる幹事の一人、札幌JCの本村さん。入会してまだそんなに年数は経ってないとも聞いている。年数浅い彼が札幌からの数名の出向者の元締めとは思えないし、なんの考えがあって出向、しかも70名を超える日本の最大の委員会のスタッフになったのか、関心があった。
私はJCが社会的に認知されることを願っている。良くも悪くも『天晴れもものふ、つわものよ』と、一度くらい言われてみたい。でも彼は『それは違う』と言う。酔っていた口調がすかさず変わった。
『本石さん、あなた和服を着るそうですね。あれって手縫いでしょ?反物を裁って、ひと針ひと針縫い上げる。そしてあなたにしか合わない着物が出来上がる。でもそこに、縫い手の作為はもう現れていないでしょ?ひと針ひと針の縫い目すら見えない仕上がりの着物もあるんでしょ?身に付ける人が喜んでくれる、それに勝る縫い子の喜びがありますか?私たちが縫い子なら身に付けるのは住まう地域の方々。JCが我を張って表に出てくるなんて間違っているんですよ。』
どこか山部OBの『いいかぁ本石ぃ、JCちゃあ地域住民、市民の下足揃えぞぉ』の話ともつながる。きっとこれは札幌JCの口伝なんだろう。山部OBは私の10歳上。似た話が年代も地域も越えて日本のJAYCEEに根付いている。
北海道の近代都市化が始まったのはつい最近。札幌JCのメンバーのほんの数代前は原野の切り株をほじくり返していたことだろう。当事者の記憶としてまちづくりの話を本村さんは子供の頃聞いていたかもしれない。まちづくりが生存の条件そのものであった地域。そこから生まれた北海道JAYCEE。

JAYCEEの本懐って何だろう。
司馬遼太郎の短編『軍師二人』は、同じ現場に立ち、しかも目的がまるで違う指揮官、後藤又兵衛と真田幸村を活き活きと描いた。『小松山奪取』しか主張しない又兵衛、『天王寺出城作戦』を提唱する幸村。小松山を駆け下りる又兵衛が東軍数万に呑み込まれるのを承知で見捨て、幸村は天王寺へ退く。ここで翌日、幸村もまた倒れる。
ある時期、事あるごとに幸村の最後の台詞が思い返されたものだった、
『又兵衛は又兵衛の死に場所で死ね』。

懇親会の最後に壇上へとうながされた本村さんは、来年の札幌の首長選の討論会で担当委員長を引き受けることに決まった、と紹介された。枚方JCの前田さんも、検証ではなく『逆マニフェスト提唱』を試みる委員長を拝命した、と。私も大川JCの村尾さんや久留米JCの丸山さんの下で次年度、ある活動に『呑み込まれる』。
私は、落としどころの捏造を謀るにはすでに能力が足りない。かつてエビラに詰め込んでいた『社交辞令・スノビズム』という矢は、へし折らざるを得なくなった。一年かけて引き絞った弓弦は既に頬に触れている。二の矢は無い。