大刀洗飛行場について

 旧日本軍が東洋一と誇った大刀洗飛行場は、現在の三井郡大刀洗町と朝倉郡筑前町にまたがる広大な飛行場でした。 旧日本陸軍は、中国大陸にも近くて広大な平地であった山隈原(現在の大刀洗町・朝倉市・筑前町)を選定しました。

日本陸軍がこの地を選定した理由は次のような理由でした。
 1.中国大陸への中継基地が九州に必要であった。
 2.敵艦隊の長距離砲の射程内に入らないところ。
 3.人気が少なく広大な土地があるところ。
 4.飛行する上で周囲に障害物がないところ。
 5.風向きが安定しているところ。

 そして、5年の歳月をかけて、大正8年、大刀洗飛行場が開設されました。
 大刀洗飛行場には、はじめ航空第四大隊が配備され、大正14年には航空第4連隊に昇格、昭和3年の天津動乱では初めてここから軍機が出撃しました。

 昭和12年頃より飛行場に付随する施設が多くなり、航空兵を養成する学校の色彩が強くなりました。全国50~60の部隊から大刀洗に派遣された兵が常時五千人ぐらい飛行機整備の任務についていました。

 昭和13年には、近隣に高射砲隊や第百部隊、航空廠、飛行場北には軍用練習機などを生産する大刀洗航空機製作所が建設されました。

 昭和14年には物資輸送のために省線甘木線(現在の甘木鉄道)が開通、飛行場前には大刀洗駅が設けられました。この頃には、旅館、写真館のほか商店も軒を連ね、飛行場界隈はちょっとした軍部のにぎわいを見せていたほどでした。

 昭和15年、大刀洗陸軍飛行学校が開隊し、大刀洗陸軍飛行学校は本校と呼ばれ、西日本に点在する飛行学校教育隊の中核的な役割を果しました。外地や関西以西にも十八の分校があり、特攻隊基地で有名な知覧(鹿児島)や「月光の夏」で紹介された目達原(佐賀)も大刀洗飛行学校の分校でした。

 昭和18年、前線に移動した高射砲隊の跡に2、000人の少年飛行兵が入隊しました。 これが甘木生徒隊です。生徒は6ヶ月の地上教育を受け、本校や分校で4ヶ月、実機で基本操縦を学び、実戦部隊に配備されました。飛行場の周辺には大刀洗航空機製作所、第五航空教育隊、大刀洗航空廠、技能者養成所、大刀洗北飛行場などが次々と開設されました。

 第二次世界大戦が始まると、西日本における航空兵器機材の補給基地となり、飛行機の生産も開始しました。また、少年飛行兵の基礎教育や訓練の場としても使用され、陸軍飛行機学校の開校に伴い、全国の陸軍機操縦士の3分の2を養成しました。その後、航空廠(工場)、通信班、気象班が設けられ、やがて航空関係一色となった大刀洗周辺は、空の一大基地にふくれ上がりました。

 昭和20年3月、二度にわたる大空襲で大刀洗飛行場は壊滅。終戦とともに、明治陸軍は70年の歴史を閉じ、飛行場は開拓され、今や往年の威容はほとんど見るべくもありません。

 現在、大刀洗駅はのどかなレールバスの駅になりました。飛行場跡地には昭和40年11月キリンビール福岡工場が建設され、今も稼動しています。

大刀洗平和記念館